オリジナルSS:『dreams on our palms』

「別れよう。それが、君にとって、一番いい選択なんだ」

卒業式の日、彼から一方的に告げられた別れの言葉。
あのとき、私がもう少しだけ大人だったなら、その言葉の意味をちゃんと理解できたのかもしれない。

***

私と彼が出会ったのは高校二年の夏。その日は雨が降っていて、傘を持ってくるのを忘れた私は、雨が止むまでの暇潰しにと校内をうろうろ歩き回っていた。
特に何の部活にも入っていない私は授業が終わると一目散に帰宅してしまうため、校内で行われている活動にいまいち疎かった。階段でトレーニングをして汗を流す野球部、ホールで寸分違わぬ演奏を魅せる吹奏楽部、ピロティーに縄ばしごみたいなのを引いて華麗にステップを決めているサッカー部……、そんな平凡でありきたりな風景ですら、知識が皆無な私にとってはなかなか新鮮なものに映った。雨は止む気配を見せない。
一体どれくらい歩いただろうか。一人オリエンテーリングにそろそろ飽きてきた私は、もう濡れるのを覚悟で走って帰ろうかと思案していた。バリバリ帰宅部の私だが、脚力と体力にはちょっと自身があった。駅までは歩いて約十分。頑張れば無傷と言わないまでもかなり被害を抑えることが出来るのではないか。心を固めた私は昇降口へと繋がる階段の方へと踵を反す。と、

目の前に壁。
私は避けることもままならず衝突。そのまま後ろに倒れ、盛大に尻もちを突いた。そして私を倒した壁はバサバサと音を立てて崩壊した。

「いったぁ?……」
堅いリノリウムの床にお尻を叩きつける痛さは想像以上に大きかった。高二女子の繊細な身体にこの仕打ちは結構辛い。
「だ、大丈夫ですか?」
私が気休めにお尻をさすっていると、頭の上から柔らかい感じの声がかかった。見上げた先に立っていたのは一人の男の子。表情に明らかな動揺が浮かび上がっていることから考えて、おそらく私を突き倒したのはこの子だろう。申し訳なさからかきょろきょろと視線をせわしなく動かし、最初のうちは目を合わせようとしてくれなかった。しかしそのうち意を決したように凄い勢いで私に手を差し出してきた。気弱そうだけど結構紳士的な人かもしれない。第一印象は割とよかったと思う。
「ありがとう」
「あ、いや、その……」
手を伸ばして、差し出された手に掴まる私。彼はそのまま私を引き上げようとしてくれ――てはいるのだが、どうも挙動がおかしい。なんだか引き上げるのを躊躇っているようにも見える。私を倒したのは自分なのに私にお礼を言われて戸惑っているのだろうか。
そこまで思考を巡らせたとき、私はふと気付く。彼の視線がある一点に向けられていることに。その視線を辿ってみると……見事、私のスカートの中にゴールイン。
「なっ……!!」
「あ、ち、違うんです! これは、その、たまたま……!」
差し出した手を引っ込め、顔の前ではち切れそうなくらいブンブン横に振って否定する彼。私の顔は羞恥と怒りで真っ赤に染まっていたことだろう。凄い勢いで立ち上がり、彼の傍まで寄っていき、そして、彼の頬に一発、手のひらで制裁を加えてやった。

……前言撤回。第一印象は、これでもかというくらい最悪だった。


普通ならそのまま永遠におさらばというシチュエーションだが、周囲には先ほどの衝突で崩れ落ちた本の山が散乱していた。さすがに申し訳なく思った私は、本を回収する作業だけは手伝うことにした。それが終わったら、こんな破廉恥男なんて本当におさらばだ。
本はざっと二十冊はあった。一冊一冊はそれほど分厚いものではなかったが、それでも積み上げればかなりの高さになりそうだ。現に私は壁と見間違えてしまったし、これだけの本を一人で運んできたとなると、彼は意外に力持ちなのかもしれない。人はみかけによらないものだ。
その中の一つを適当に手に取ってみる。表紙には『明解図説 日本の鳥』と書かれていた。内容はまあタイトルから想像できる通りのものなのだろう。
「……野鳥の会?」
「え?」
私の呟きが耳に入ったのか、彼がこちらを見る。もちろん、スカートの中身ののぞき見対策は万全だ。
「だから誤解だよ……。それに、僕は野鳥の会でもないよ」
私の心の呟きを察したのか、彼はため息をつく。
「でも、こんな本読む人私見たことないし。あ、じゃあ鳥マニア?」
「仮にそうだとしても、もう少し言い方があるんじゃないかな……」
頭の悪そうな物体を諭すような口調で彼は話してくる。むむ、確かに定期試験じゃいつも下から数えた方が早いけどさ……。もう少し接し方ってものがあると思う!
何か反論してやろうと思ったけど、私の興味はそちらよりもこちらに向かっていた。目の前の「鳥」、これが果たして意味するところは何なのか、私のほんの少しだけ悪い頭では考え付くことが出来なかった。
「あー、もう降参! もったいぶらないで教えてよ!」
「別にもったいぶってたわけじゃ……まあいいや。ここだよ、ここ」
そう言って彼は私の隣を指さす。しかし隣には誰もいない。え、まさか「幽霊」とかそういうこと?
「そうじゃなくて、“ここ”」
彼の指がゆっくりと上昇していく。追いかけるように首を上に向けると、それが扉だということに気が付いた。そしてその扉の中央少し上辺りに白い紙がセロファンテープ一枚で張り付けられており、そこには綺麗な文字で「写真部」と書かれていた。


「うわあ、物がぎっしり」
「あんまり触らないでね。結構高価なものが多いから」
部室の中には私が初めて見るような機材が所狭しと並べられていた。写真なんてカメラと三脚があれば十分だと思ってたけど、実際にはもっと多種多様な設備が必要らしい。
「それでも昔に比べればましな方なんだよ。今はデジタルの方が充実してるからね」
聞いたことないかな、暗室で現像してるところに光が入ると感光して写真が真っ黒になっちゃうってやつ? と、彼は続けた。あ、なんか聞いたことあるかも。そっか、デジカメだとそんな心配はいらないもんね。科学の進歩って凄い。
「これがその現像に使う薬品で、左から現像液、停止液、定着液って言って……」
その後も彼は何も知らない私のために色々なことを説明してくれた。写真のことについて語る彼はとても生き生きしていて、さっきまでの優柔不断な態度を取る彼とはまるで別人のようだった。かすかに開いたカーテンの隙間から差し込んだ太陽の光が顔に当たり、私は眩しさから目を瞬(しばた)かせた。

「で、最後にこれで……あれ?」
口を動かすことに夢中になっていた彼が、突然動作を停止する。おそらく自分が無意識のうちにべらべらと喋り続けていたことに気が付いたのだろう。
「ご、ごめん。なんか一方的に話しちゃって。つまらなかったよね」
「ううん、楽しいよ。初めて聴くことばっかりだから」
あんまりよくは分からないけど、と笑いながら付け加える私。なんとか酸とかなんとか銀とか頭が痛くなりそうな用語がいっぱい飛び出してたけど、同じ言葉を理科の授業で聴くよりはずっと面白かった。やっぱり意味は分からないんだけどね。
「あ、そうだ。じゃああなたが撮った写真を見せてくれない? そっちの方がもっと楽しめるかも」
「え、あ、うん、いいけど……そんな期待できるもんじゃないよ」
言いながら、彼は自分の机らしきものの方へと歩いていき、小棚から一冊のアルバムを手にして私の元へと戻ってきた。淡い青色を呈した、綺麗なアルバムだった。
彼が開いたアルバムを隣から覗き込む。私は一瞬にして、そこにある風景に目を奪われた。花は笑い、鳥は歌い、風は走り、月は眠り。それは大自然の優麗さをそのまま切り取って張り付けたかのようで。いや、私がこの場から切り取られ、大自然の中に身を投じたかのようで。
技術的な良し悪しは私には分からない。でも、彼が撮った写真を見ていると、私の中に力強く温かい“もの”が流れ込んでくるように感じる。それは言葉では説明できないとても微妙な感覚で、きっと技術云々の枠には収まりきらない特別な才能のように思えた。

「……ん、どうしたの?」
「え……い、いや、何でもないよ! うん、何でもない!」
ようやく部室に身も心も帰ってきた私がアルバムから顔を上げると、彼が私の顔をじっと見つめていた。彼は私と目が合うと慌てた様子で視線を反らした。何だろう、私の顔になんか付いてるのかな。ぺたぺたと手で触ってみるが、それらしき感触はない。
「ご、ごめん。もうすぐ先輩たちが来ると思うから、今日はこの辺でいいかな」
「うわ、もうこんな時間」彼と私が部室に入ってから既に一時間ほどが経過していた。
「ごめんね、長居させちゃって」
「私こそ、長居しちゃってごめん」
互いに顔を見合わせ、同じタイミングで微笑み合う。こんな穏やかな気持ちになれるのも、彼が見せてくれた写真のおかげなのかなと思った。
「あ、そうだ」
扉の前まで歩き、立ち止る私。そのままくるりと体を反転し、彼の方を見る。
「今度見せてよ。写真撮ってるとこ」
「え……。う、うん、いいけど……」
私の突然の提案に彼は面食らったような顔をした。私は彼ならきっと了承してくれると思っていたが、やはり彼は一瞬戸惑ったものの肯定の返事を返してくれた。
「じゃあ、今週の日曜日に……」
そういう彼の顔は、心なしか少しだけ赤みがかっていた気がした。

***

そして約束の日曜日。
ガタゴトと電車に揺られ、彼と私がやってきたのは市外にある少し大きな森林だった。天気は快晴も快晴。素人の私からしてもベテラン(?)の彼からしても文句ないほど絶好の写真撮影日和だった。
「はい、これ虫よけスプレー。あ、あと結構歩くから、気分悪くなったら言ってね?」
「大丈夫よ。子供じゃないんだから」
どちらかというと私より彼の方が不安だった。外見からしても性格からしても、彼はそんなに丈夫そうには見えなかったから。
「それじゃ行こうか。迷ったら大変だから、ちゃんと僕に付いてきてね」
でも、私の安全を保障するような、彼にしてはちょっと強引なその言い口に、私は不覚にもドキッとしてしまった。うん、と軽く返事をして、私はゆっくりと歩きだす彼の後ろに付いて行くのだった。

電車内で既に「どうして写真撮影にこの場所を選んだのか」の理由は訊いてある。
そう、あの時手にした「野鳥の会」だ。
『明解図説 日本の鳥』を読んだ彼によると、この森の奥で日本では希少な鳥がしばしば目撃されるらしい。しかしそれだけのためにここへ来たとなると、彼のフットワークの軽さには驚かされる。私だったら休日はちょっと大きな街へ行って服買ってお茶でもしてるだろうなぁ。服を買うためだけに大きな街へ行くのも、ある意味フットワークが軽いとも言えなくもないけど。
目的地を目指しつつ、彼は通りかかった場所にいいモチーフがあると、それを写真に収めていった。その対象は様々で、木、花、虫、あるいはちょっとへんてこな形をしたキノコなど、とにかく彼が面白いと思ったものを片っ端から撮っているようだった。私はカメラの保存容量を心配したけど、おそらくそんなことは私に心配される筋合いのないことなのだろう。
彼が撮った写真を見せてもらったりした。相変わらず彼に写された被写体は嬉しそうな表情をしていた。でもなぜだろう、あの時部室で襲われた「あの」感覚を感じることは、長い間歩き続ける中で一度としてなかった。

「や、やっと着いた……?」
「うん、めでたくゴールインだね」
歩き続けること約一時間、私たちはようやく目的の場所へと到達した。私は疲労と安堵からその場にへたり込んでしまう。森の中は意外と足場が悪く、それが余計に私の体力を削った。
疲労困憊な私とは対照的に、彼はいたって元気溌剌だった。当初の心配は完全に余計なお世話だったらしい。見た目にはそんな体力があるとは思えないのに。趣味に没頭してる男の人って疲れを感じないのかな。何だか少し悔しい気分になった。
そこはうっそうと生い茂る木の中にぽっかりと穴が空いたかのように開けたスペースだった。中央には小さな泉が湧いていて、歩き疲れた客人を迎え入れる憩いの場といった印象を受けた。
「さて……」
周囲を一瞥し、彼は自慢のカメラを構える。そうだ、彼にとってはここがゴールではない。むしろここからがスタートなのだ。
残念ながら私の冒険はもうゴールしたと言ってもよい。立ち上がる気力も起きないので、地面にべたりと座ったこのままの姿勢で彼の雄姿を拝見しよう、そう考えていたとき――。

くるくると、
空気を読めない私のお腹が大声で鳴き出した。

「……その前に、昼にしよっか」
「………………はい」
恥ずかしすぎて、その辺に埋まってしまいたい気分だった。


昼食は私が作ってきたお弁当を二人で食べた。私の長所は二つ。運動が出来ることと、料理が出来ること。運動の方は見た目から納得がいくらしいが、料理が出来ることを他人に言うと何故かいつも疑われるのが心外だった。彼も私がお弁当を作ってきたと聞いたときは目を丸くしていたが、実際にお弁当を口にしてその完成度に私が料理上手だという事実を認めてくれた。
考えてみればこんな大自然の中で食事をするなんて小学校の遠足以来かもしれない。お弁当を食べながら私はちょっとしたピクニック気分を味わってご機嫌だった。泉から湧き出る水のせせらぎが静まり返った世界に潤いを与える。空を見上げれば、私たちがさっき通ってきた森の方から一羽の鳥が颯爽と風を切って私たちの頭上を通り過ぎて……。

……って、鳥!?

「ねえ、鳥ってもしかしてあれのこと――」
私は息を呑んだ。彼の方を向いたとき、彼はもう既に撮影の体勢に入っていたのだ。
彼は鳥を追いかけることはしなかった。ただただ、ある一点に向けてカメラを構え続けている。精神を研ぎ澄ませ、“その”瞬間を待っているかのように。
どれだけ時間が経っただろうか。静寂を破ったのは、木の葉が擦れる音だった。音のした方向から、先ほど見た鳥が風のヴェールを纏って飛び出してくる。来た、私は心の中でそう呟く。
鳥はかなり上空を飛んでいたが、地上からでも十分目視できるくらいに大きかった。しかしその動きの速さは今まで私が見たどの鳥よりも速く、とても視界に捉え続けられるものではない。大鳥は私たちをあざ笑うかのように、縦横無尽に空を飛び回っていた。
それでも、私の心は奇妙な安心感で満たされていた。彼ならこの大物をきっと捕らえることが出来る。左脳的思考ではなく、右脳的感覚。根拠のない自信であって、最も根拠のある信頼。隣にいる彼は今もあのままの姿でカメラを構え続けている。まるで、来るべき時を知っているかのように。
やがて、予測不可能な動きを見せていた大鳥が、ある軌道をなぞり始める。それは紛れもなく、彼が待ち望んだもの。予定調和とも思えるほど鮮やかに、彼が示した軌跡に乗ったその大鳥は、そのまま、彼-カメラ-の中へと吸い込まれた。


雲ひとつない青空を、一羽の大きな鳥が羽を広げて駆け抜ける。
文字にすればたった一文でそっけなく終わってしまうけれど、私は今、部室で味わった「あの」感覚の中にいた。まるで自分が写真の中に入り込んでしまったような、神秘的な感覚。でも決して嫌な気持ちにはならない。これはきっと、彼の才能。
「空はね、繋がってるんだよ」
海や国境で隔てられている人や国も、空を介して繋がっている、とは彼の持論。私にはない考えだったけど、彼の撮った写真を見ていると、何だか本当にそんな気がしてくるから不思議だ。
「さ、帰ろうか。あんまり遅くなると暗くなって危険だからね」
彼は自然に右手を差し出してきた。私はその手に自分の左手を重ね、二人並んで憩いの場を後にした。


***

写真の腕に加えて、彼は頭もよかった。
私には全く関係のないものだったからちゃんと見ていなかったけど、どうやら一年の頃から彼は定期試験の校内ランキング上位者で、職員室前に掲示される張り紙ではいつも上位に名を刻んでいたらしい。私も彼の学力の高さは保証する。現に、万年クラス最下位争いをしていた私が、彼に勉強を教えてもらうようになってから、クラスで真ん中くらいの成績を取れるようになったからだ。よく「人に教えられるようになって、初めてそれを理解したと言える」とか先生が言うけど、彼はその意味で、本当に頭がいいと言えた。
私と違って、彼には才能がある。その才能はもちろん生かすべきだし、伸ばすべきだとも思う。

でも私は、彼の才能を恨んでしまった。才能なんて、なければよかった。そうすれば、出会うことなんかなかったのに。



別れることなんか、なかったのに。

***

彼と付き合いだしたのは、高校二年の冬。たまに男らしい一面を見せるけど、やっぱり彼はちょっと押しが弱くて。クリスマスの日、私から告白した。心臓がドキドキして、顔は真っ赤で、断られた時のことを想像したら涙が出そうで。普段強気な私が、この時だけは私じゃないような気がして。
そんな私を、彼は無言で抱きしめてくれた。細身の体からは想像もつかないくらい力強く。それは何よりも分かりやすい肯定の証。優しくて温い、肯定の印。私は彼の胸の中で、泣き声を隠すことなく、大きな声を上げて涙を流した。

それから一年間は本当に充実した日々が続いた。私たちは三年生になり受験を控えていたから毎週出かけたりすることは出来なかったけど、一緒に勉強したり(私が教えられる一方だったけど)、放課後一緒に商店街を周ったり、たまの休みには写真を撮りに行ったり、そんな些細なことで十分だった。小さな幸せの積み重ねが、私と彼の絆を少しずつ膨らませていった。

彼から留学の話を聞かされたのは、私の私大受験が終わってからのことだった。
突然の告白に、私は声を発することが出来なくなった。心がざわつき、呼吸が乱れ、立っているのもままならないほど動揺した。そんな私を彼は抱きとめて、優しく、ゆっくりと、諭すように話し始めた。
彼が留学の話を持ちかけられたのは、三年の九月半ば頃だったらしい。彼の才能を理解していたのが私だけということはもちろんなく、写真部の顧問の先生が彼の写真のセンスを見込んでプロのカメラマンに写真のいくつかを見てもらったところ、そのカメラマンも彼の写真に並々ならぬものを感じたのか、この子には海外で本格的に写真を学んでほしいものだと示唆したのだそうだ。こうしてプロのお墨付きを貰えるのは極めて異例であるらしく、加えてあの学力だ。先生側としても彼の将来と学校の面目を考えると、ぜひ彼に留学してほしいのだと思う。
そこまで言われれば、普通の人だったら即留学を決心するだろう。でも、彼は迷った。その迷った理由の一番が「私」だと彼から聴かされて本当に嬉しかったし、本当に悲しかった。私の存在が彼の足枷になるのは、とてもじゃないけど堪えられないから。
彼は決断を下したのは、新年に入って一週間ほど経った、ちょうど最後の始業式の日。悩んで、悩んで、悩み抜いて、彼は留学を選んだ。彼はきっと、私がそう望むと信じていたんだと思う。でも、大事な試験を前に心を揺さぶるようなことを言うのは避けた方がいい。だからこそ、このタイミングで全てを打ち明けることにしたというわけだ。
「大丈夫。留学するっていっても、永遠に離れ離れなわけじゃないから。休みになったら必ず会いに帰って来る。約束するよ」
今にして思えば、無責任な彼の言葉。いくら恨んでも恨みきれない、裏切られた言葉。でも、あの時の私を納得させるには、彼はこう言うしかなかったのだ。それが例え、残酷な別れを生む言葉に変わってしまうとしても。
私は彼の胸の中で、必死で嗚咽を押し殺すようにして、静かに涙を流した。


そして、彼は私の前から姿を消した。もう二度と、会うことは叶わない。


***

大学に入学して一ヶ月が過ぎた。初めは高校と全く違う生活スタイルに戸惑っていた私も、優しい先輩たちや新しく出来た友達のおかげで、ようやくそこそこ楽しいキャンパスライフを送ることが出来るようになっていた。
大学生活に慣れると心にゆとりが生まれる。ゆとりが生まれると「暇」な時間が増える。時間割を組んだ後に週三でバイトを入れてみたりもしたけど、それだってお釣りが来るほどに時間は余る。余った時間を勉強に回すほど私は真面目じゃないし、没頭できる趣味もない。何も考えずに意識をボーっとさせているだけの時間が増えていった。
そうしてボーっとしていると、思い出してしまう。思い出したくないのに。思い出しても仕方がないのに。脳裏に浮かぶのは、彼との別れのシーンばかり。楽しい想い出もたくさんあったはずなのに、あの日の冷たい情景だけが鬼気として迫ってくる。

今日も授業を終えて帰宅する途中、そのことを思い出してしまった。空はあんなに晴れているのに、私の心は陰鬱だった。
滅入った気持ちのまま、私は電車に乗る。車内はがら空きで、ぽつりぽつりと人が座っている程度。けれど私はどうしても座席に座る気分にはなれず、吊り革に掴まりがくがくと振動に体を揺さぶられながら、車窓から見える遠くの空に想いを馳せた。

と、いきなりくるくると鳴り出す私の中に住む腹の虫。そういえばもうお昼の時間はとっくに過ぎている。あまりにも場面にそぐわない間抜けな音に、私は苦笑するしかなかった。
「悩みすぎて、よく分からなくなってきちゃったよ……」
お腹へったなぁ。この状況でそんな風に考えられる私は、意外と元気なのかもしれない。そう思っていれば、少しは気が紛れる気がした。
「…………そうだ」
ふと、私の頭の中で参加者二人の連想ゲームが繰り広げられる。伝える人は「腹の虫」くん、伝えられる人は「空」さん。
「行ってみようかな……」
どうやら上手く伝わったようだ。どこかで誰かがほっと胸を撫で下ろす。私は自宅がある駅を通り過ぎて、ある場所へと向かった。伝える言葉は「お弁当」。


「はぁ、はぁ……。相変わらず遠いなぁ……」
電車を降りて歩くこと約一時間、私は息を切らしながらも、無事目的の場所に着くことが出来た。汗で服が体に密着して気持ち悪いけど、そのうち風で渇くだろうから頑張って気にしないことにした。
「変わってないなぁ……」
密に並ぶ樹木の中に、ぽっかりと空いた大きな穴。彼と私が初めてデートした――今思えばあれはデートだったんだと納得できる――場所。それは二年前と全く変わらぬ形で、私の目の前に姿を現した。
でも、形は全く変わっていないのに、私はどこか以前と違う印象を受けた。あの時全く感じなかった「空虚感」がどことなく漂っている。広場の真ん中にぽつんと一人置き去りにされた小さな泉は、あの日とは違いとても寂しそうな顔をしていた。
体の力を抜いて、ぱたりと仰向けになってみる。服に土が付いちゃうけど、洗濯すれば落ちるから気にしない。スカートの中身が丸見えだけど、どうせ誰もいないから気にしない。
視界いっぱいに広がる青い空。私はポケットから携帯を取り出し、内蔵されているカメラを天に向けて、シャッターボタンを押した。そこに映っているのは空。それ以上でも以下でもない、ただの青い空だった。あの日見上げた、空の色とは違う。
やっぱり、駄目か。私に彼と同じ写真が撮れるはずがない。それは携帯のカメラじゃなく、一眼レフのカメラだったとしても一緒。彼と付き合って写真の知識は二年前と比べ物にならないほど増えたけど、きっと今撮るのも二年前に撮るのも一緒。の見る人の心を震えさせる写真は、やっぱり彼にしか撮ることが出来ないんだ。
「もし彼と同じ写真を撮ることが出来たら彼と再会できるかもしれない」。なんて甘く考えていた自分が嫌になる。嫌になって、もう何も考えたくなくて目を瞑った。そのまま、意識が遠のいていった。


私が次に目を開けたとき、空は鮮やかなオレンジ色に染まっていた。寝起きの悪い私はすぐには立ち上がれず、目をごしごしと擦って、仰向けのままボーっと空を眺めていた。
ふと、大空に一羽の鳥が迷い込んできた。寝ぼけ眼でも形がはっきり見えるくらい、大きな大きな鳥。鳥はしばらく私の頭上をぐるぐると旋回していたが、やがて森を越えて遥か遠くへと飛び去って行った。
そこで私は唐突に気が付いたんだ。いや、思い出したのかな。自分でもよく分からないけど、とにかく自覚したときには既に迷いなんて吹っ切れていた。私を鼓舞するような前向きな考えが、足の底から湧いてくるような気分だった。

私の三つ目の長所。押しが強い。少なくとも、彼よりはずっと。

女の子って、そんなに諦めがいい生き物じゃない。男の人が嫌になるほど、執念深い生き物なんだ。

――別れよう。それが、君にとって、一番いい選択なんだ。
卒業式の日、彼から一方的に告げられた別れの言葉。
あのとき、私がもう少しだけ大人だったなら、その言葉の意味をちゃんと理解できたのかもしれない。

でも、大人になるってことは、痛みを隠して生きることじゃない。
そんな生き方をするくらいなら、私は大人になんてならなくていい。

気が付けば私は走り出していた。勢いをつけるために。大空高く、飛び立つために。



***

八月某日。NY郊外のとある公園にて。

日本では初秋を迎え暑さのピークも過ぎかけている頃だが、こちらの気候はまだまだ夏真っ盛り。少し健康管理を怠ればすぐ日射病になってしまいそうな、厳しい暑さが続いていた。
そんな環境の中でも、子どもたちは全身から溢れ出るパワーを惜しみなく使い、広い公園内をまるで自分たちの庭のように駆け抜けている。子どもが元気なのは万国共通なのだろう。私も少し、その元気さを見習わなきゃと思った。
そんな子どもたちを、公園の隅っこに置かれたベンチに腰掛け、微笑ましそうに見つめている一人の男性がいた。その手の中に収まっているのは、飽きるほど目にしてきたもの。
私はゆっくりと男性に近付いていく。そして、米国人を気取って気軽に元気よく、自然な感じで話しかけてみた。
「Hello. How are you?(こんにちは。調子はいかがですか?)」
定型句どおりの私の呼びかけに、男性はきっとお決まりの返事を返してくるだろうと、私以外の人ならそう思うだろう。
「I’m fine thank you. And――(元気ですよ。そちらは――)」
しかし、彼は途中まで言葉を発したところで、二の句が継げなくなってしまった。目を見開き口を半開きにしたまま微動だにしない。その姿に、わたしは思わず噴き出しそうになってしまった。こんな面白い顔、初めて見たかもしれない。
「ど、どうして……!?」
硬直が解けた彼から返ってきたのは、理解できないといった意味の副詞だった。それも仕方のないことだろう。私がもし彼の立場だったら、同じ感想を抱いていただろうから。
「知ってた?」
でも私は違う。彼の質問に対する答えは、もうずっとずっと前に考えていた。鳥になろうと決めた、あの日に。私は彼の驚き顔から眼を離さずに、心からの笑顔とともに告げた。



「“空ってね、繋がってるんだよ”?」


(fin.)





【あとがき】

こんにちは。所詮ブログ管理人の綺羅矢的です。
とりあえず、こんな長いSSを最後まで読んで下さった方、本当にありがとうございます。けいおんSSだと思って期待した方、すみません。今回はほぼ100%オリジナルで書かせていただきました。
「ほぼ」100%の理由を説明させていただきますと、まあ既にお気付きの方もいらっしゃるでしょう。その方にだけ、今後スフィアファンを名乗る資格を与えましょう(何様)。

大人になるってことは、痛みを隠して生きることじゃない。

気付く方はここで気付くでしょうね。いや、もしかしたらタイトルで気付く猛者もいるかもしれません。

「dreams on our palms」意訳すれば『手のひらに夢』です。

二週間くらい前ですかね。何か書きたいなと思いました。でも、けいおんSSは正直マンネリ化していたので書きたくない。しかしオリジナルを書くにはアイデアがなさすぎる。そんなときにこの曲を聴いて、「あ、これはいける」と、自分の中で何かが生まれる感覚を捉えました。このSSは『手のひらに夢』の歌詞、曲調から着想を得て出来たものです。あくまでも「着想」であり「解釈」ではありません。イメージソングのようなものとしてお考えください。
そんなこともあり、本当は最後に歌詞を挿入するつもりだったんですが、締まりが悪くなるのでやめました。それにここまでの長編になってしまうと、もはや曲の要素は完全におまけのようなものですからね。最初は「半オリジナル」と銘打とうとしていたのも、結局「オリジナル」に変更しました。
自画自賛してしまうと、僕が書いたSSの中で、これが一番いい出来だと思っています。それは文章力とか構成力の問題ではなく、このSSが一番「最後まで楽しんで書けたから」という一点に尽きます。文字を打ち進めていくごとに、体の中から沸いてくる創作意欲。普通は減衰するものが、今回は増加していきました。これは僕にとって革命であり、大きな進歩なのではないかと思います。

最近は少しずつですが色々なラノベを読み始めています。昔持っていた「本への苦手意識」も、ここに来てほぼ消えかかっています。おそらく人生の中で最も自分を変えることのできる大学生時代。今後のために、今のために、たくさんのことを吸収していければなと思っています。





手のひらに夢 こぼれぬように
私は歩いて行くの
変わり続ける今の先へ
思いっきり 笑って泣いて 行くよ
今を歩こう
image song:『手のひらに夢/スフィア』
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